Macの調子がおかしい。
起動したら日本語システムがおかしくなっていて、
すぐ落ちるはずのダウンロードファイルに15時間かかるとか言っている。
このMacも、いつか死ぬのかな。頼むから、いま壊れないでください。。
負荷かけすぎてごめんね。人間も機械も、負担が多いと疲れちゃうよね。



今日、友達が一緒にゴハンを食べてくれた。
ありがたいことだ。
むしろ奇跡だ。
最近は出かけられないくらい弱っていたので、何度もこういうチャンスを逃してしまった。

もう2週間以上、ゴハンは1日1食。
震えたり立てない日もあるので、病院の「栄養缶」という、
死ぬ間際の人が摂取するような液体で、栄養を摂らせていただいている。

医療に、命を守ってもらっている気分。
アメリカだったらこんな風に病院にお世話になれないし、
「栄養缶」をくれるなんて、日本は本当に親切な国だなぁ。

今年の漢字を決めるとしたら「生と死」かもしれない。

今日の朝、階段の上り下りなんていうつまらない運動で、心臓が痛くなった。
今も猛烈に心臓が痛くて、(30秒くらいで一応終わった...)
とりあえず死ぬ前に残しておこうみたいなつもりで、ブログを書いている。
書いてて自分でも怖いけど、人は毎日いつ死ぬかわかんないんだ。


そして今日書くことは、
こんなもん言わないほうがいいに決まってるんだけど、
こんなもんだれも読むわけがないだろう、長いし。
という前提で、とりあえず残しておく。




夜、雨が降っていた。
傘がなかった。
帰り道、自分一人のために傘を買う気なんて起きない。
自分なんて、濡れても汚れてもいい存在だと思った。最近自分に何の価値も感じない。

「風邪ひかないようにね」と別れ際に言ってくれた友達の言葉はすごく優しくて、
自分もそんな優しい言葉をかけてもらえる日があるんだなぁと心から感動したはずなのに、
同時に、自分のことを言ってもらえているように感じない。
自分はそんな優しい言葉に値するような人間じゃないから、うまく信じられていないというか。
不思議な感覚だ。
ボケた人が自分の子供に「だれ?」と言っているような、失礼なものを感じる。申し訳ない。

ものすごく悲しいことだけど、これが今私が患っている「離人症」ってやつらしい。
絶対言わないほうがいいんだけど。こんなこと。

自分なんてゴミみたいなものだから、という思い込みのほうが強くなってしまっていて、
人のあったかさが、肌の芯までうまく届かないらしい。

ものすごく空しいけど、でも「風邪ひかないで」って言葉のおかげで、
今までの10倍100倍のありがたさと優しさを感じられる自分もいる。

氷のような自分が俯瞰や遠くで見ているのと、
超敏感な自分が何もかもを子供のような目線で、間近で迫力ある映像として現実を見ている自分と、
2つの自分が存在しているらしい。
文章にすると、気持ち悪いけど。

でもこれは実は多くの人が体験したことのあるもので、
たとえば忙しいときに笑えないとか、
いやなことを忘れてしまうとか、
一歩引いて見てみるとか、
そんなことも「離人」の1パターンなんだそうな。




帰国してから、今までなかったほど強烈な離人感から抜け出せず、毎日ひどくなっていく。
食欲も感じない。時間も感じない。自分から離れてしまっているから。
目をつぶると地面から遠く、深層心理の世界みたいなところへ行ってしまって、帰ってこれなくなってしまう。
今が冬でよかったと思うんだけど、寒さだけは感じる。
突然肩が痛くなったり、頭痛がすると、「生きてるなぁ」って思える。

ブラジルや空港宿泊のときにかかったかもしれない「ライム病」っていうウィルス系の病気も、この病気を作っている一因かもしれない。
まあでもそんな病院にかかるとか書類まとめるとか何もかも、死ぬほど面倒くさいのである。
どうせ明日死ぬかもしれないんだから、病院なんてかかっても...とか思ってしまう。
明日死ぬかもと思うと、何もかもどうでもよくて、何もかもが面倒くさい。

こんなの、生きたくても生きられない人がいるのになんてことを、とも思うんだけども、
各々が持つ状況ってのは、比較して何がどうなるわけでもない。




時間も飛んでしまって、気がつくと現実世界にとどまるために本に手を置いてそこにしがみついていたりする。
どこか遠くへぶっ飛んでいかないように、何かに手でつかまっていないといけなくて、それがPCだったり、スマホだったり、本だったり。
こうしていても理性がコントロールしているわけではなくて、どんどん意識が遠くへ飛んでいくから、自動で文字が入力されていくような状態になる。
何書いてるかなんて、自分でもわかっていないし、どうでもいい。

英語はアレルギーみたいになっているから、勉強はきちんとした文章は読んでも頭には入らない。
英単語をひたすら書いて手で覚えていくとか、ある種トランス状態みたいになりながら、ぼんやりこなしていく感じ。

現実にいないわけだ。

何よりもかわいそうなことだと思うのは、
この子は、薬やお酒でこうなっているわけではなく、そんなはけ口もなく、
自分が大嫌いでたまらない薬中とかアル中が体験しているかもしれない、嫌いなテの世界を体験させられていること。
一人でお酒でも飲んで、この地獄みたいな感覚が酒のせいだと思えたら、どんなに楽だろう。でも一人でお酒なんて飲む人間じゃない。

ちなみにスピリチュアルも好きじゃないから、「帰ってこれない」とか幽体離脱みたいなことを言うのも非常に遺憾だ。
そして、自分が体験していることが、それ以外の何物でもないことも、受け入れがたい。

眠る行為もつらい。人に説明するのもつらいぐらい。
目を閉じたら、今度はまた別の現実に引きずりこまれる。
夢は現実ほどくっきりしてるし、現実は夢ほどぼんやりしている。だから境目がない。



人に誤解されたくないなんてこだわりもなくなってしまったし、
明日死んだときのために記録しておこうか、みたいな軽い気持ちで、ここまで書いてしまった。

言わないほうがいいに決まっているけど、できればいつも正直で隠すもののない人間でいたい。
あとは単純に、記録魔なんだろうな。
記録していなかったら、明日の自分が何にも覚えていなかったら、不安で仕方ない。





あるとき「あぁ、なんもかんも空しい」っていうときがあって、
そのときに、ふわーーっと、意識が空にいってしまって、なかなか全部は帰ってこれない感じ。





こんな状態なわけだから、
今日みたいに、ちゃんと時間通りに立って準備して移動して友達と何か食べられる日は、貴重だ。
まず準備が成功した時点で奇跡だと思うんだけど、
こんな自分にも、会ってくれる友達がいてくれることが奇跡だ。




友達と食べたものはおいしいし、
友達と飲めば、コーヒーはものすごくおいしい。
一人のときは、パンもお米も、あんなに恋しかった日本食も、砂の塊を噛んでるのと変わらない。
だから友達って存在は魔法だ。人生で一番必要なものだと実感している。



お肉がおいしかった。
でも、おいしいいーっって言っている自分の、80%は体の中におさまっているとしても、
20%はまだどっかに置いてきちゃってたりする。
でも普段は80%喪失していたりするわけで、これは本当にありがたい。友達のおかげだ。




そこで食べたエネルギーが、帰り道に燃えてしまったみたい。
地下鉄の駅を出たら、
急に、外の風や、寒さを感じるってこと自体が、ものすごく気持ちよかった。
風と寒さを感じるってことに、快感を感じた。
水滴を感じる暇はなく、気づいたら足が走り出していた。

着ていたジャケットのフードをかぶると、雨が降っているのは全然感じなかった。
服が濡れてきても、それを手で触れても、「これは水滴のはず」と認識するのに、全然手で感知できなかった。
自分の体が雨に濡れている感覚がない。


ライム病では手の麻痺が起きるというけれど、麻痺っていうのも違う気がする。
あんまりわからないけど。
自分の手を触れると、知らない他人に触られているようで、ひたすら気持ちが悪くなる。



寒いとか、濡れるとか、
風邪をひくなんて関係ない。
風邪をひける明日が存在するなんて思えない。

最近、自分の体をつぶしたい気持ちでいっぱいだった。
つぶれるまで走りたいと思った。



走りはじめてすぐ、何かスイッチが入った。
たぶん心拍だと思う。
ドッと脳に「生きてる」って感じるアドレナリンみたいなものが走っていくのがわかった。


ものすごく気持ちよくなったので、気づいたら速度を上げて、まっすぐな夜道を全速力で走っていた。
その瞬間、自分が弾丸になってぶっ飛ぶように、
「生きている」という感覚が戻ってきた。

走っている足が水たまりに突っ込まれると、
自分の体ではまったく感じないのに、
その光景だけが第三者がカメラで撮影したような映像として、やけに生き生きと目に見えてきた。

だけど走っているという感覚、地面に足をついているという感覚はなくて、
ただただ飛んでいるような気分になった。

夢の中で自由に空を飛べるのと同じような、
空を飛べるものの目線で撮影した映像を見ているような、ただただ気分がよくなる光景。

体がどんどん軽くなっていって、ふっと消えてしまいそうになる。
(今考えたら、心臓止まらなくてよかった)


そこから何も考えず、無我夢中で、心臓破りの坂をのぼっていた。
「無」になって、走っているのに消えてしまったような気分。




途中でバテて膝から落ちたいくらいだったけど、休むとすぐにまた走れるようになる。
休んで息をしていると、急に地面に、現実に戻ってこれる。
そのとき、すごく生きていると思える。
自分の息があがっていることや、心臓の音が信じられない。
自分の体だってことがわからない。

なのに、休むとまた体が動くことを奇跡に思う。
自分の体だって感じがしないのに、嘘みたい。
今まで動けなかったのに、嘘みたい。

なぜか遠回りをしたくなるほど気持ちがよかったけど、
いきなり走りすぎたら体力がもたないと思ったから、やめた。




「雨の中で走ってみた」って文字だけ見ると、ロッキーみたいな熱血な感じだけど、それとは真逆。
神経が鈍い中で走るっていうのは、めちゃくちゃ怖いことだった。
いつ膝から落ちるかわからないし、どこかが痛くなっても気づかないからだ。
この恐怖感、誰かにわかってもらえるような気がしないけど、今はそれも全然気にならない。

孤独感も感じない。人がわかってくれるとも思わなくなった。


人と感情や感覚を共有できると、思わなくなった。
それと同時に、正反対の感覚もある。
自分はどんな人の感覚にも入り込んで、その人の感覚を共有できる気体のような存在でもあるようにも感じる。

こうやって文章にするのは、人にわかってもらうためじゃない。
明日の自分が全部忘れていたときに、
昨日の自分はこんな感じだったよ、と教えてあげるため。記録。
あとは同じ離人症の人がいたら、しんどいだろうなぁと思うから。
そうじゃない人に変とかやばいと思われるのは、なんだかどうでもいい。

こういう話題が好きな人が、近づいてくるようになるかもしれないし、
こういう話題を嫌いな人は、離れていくかもしれない。
もっとうまくやればいいのに。
でも人目を気にするとか、世間体を保つという最大の安全をぶっ壊してでも、
私が今自分及びもしかしたら誰かのためにしてあげたいことは「正直な記録」なのだ。



気味が悪い話だけど、自分は今「意識」だけの存在になっていて、
ずれた体の操作を一歩間違えたとき、ふっと体は死んじゃうんじゃないかな、と思う。

「気づいたら、両肩を電車のドアに挟まれていた」という経験を帰国直後にしたんだけど、
そんなことがふと起きてしまうような気がしている。
よくわからないまま気づいたらはさまれていて、反射的に周りの人がみんな手をのばしてドアをこじあけて助けてくれた上に、一秒後には何事もなかったような顔をしてくれてみんなが満員電車の中に秩序を取り戻した記憶だけが鮮明にあって、感謝している。
人の力は、集団の力は、本当にすごいなと思った。
よってたかっていたぶることもできるけれど、助けること、生かすこともできるんだ。

1年前に自分は逆の立場で、ドアにはさまれた子供を助けるために手をのばす「みんな」側に回ったことがある。
iPhoneも財布も座席に置いたまま瞬時に向かったので、後々事故の影響を調べたら「ああいうときすぐ行けちゃう人すごいわ」とツイッターで書いてくれている人がいた。
1年前の私があのとき子供のために手をのばさなかったら、人々は私のために手をのばしてくれただろうか?
考えてみたけど、過去なんて関係なく、たぶん人は助けてくれていただろう。
だって1年前の自分だって、とっさに手をのばしていたから。
人って優しいものだと思った。
だから自分も、人には優しくしなきゃいけない。




そう、「人には優しくしなきゃいけない」という気持ちが強くある。
だから「ありえないほど人に優しくない」人を見てしまうと、
ときどき許容範囲を超えて、何も言えないけれど、すごくショック受けたり、怒りを感じたり、
なんともいえない受け止めがたい気持ちになる。


8ヶ月前は、こんなんじゃなかった。
8ヶ月の間に、汚いもの、受け止めたくないものをたくさん見すぎたせいで、
脳が現実を拒否して、自分は自分じゃないと思うっていう対処法をとっているので、
体と意識が別になっているらしい。
なんか、脳みそって、すごいですね。


3月4月に、日本でいろんな人と、
桜がきれいだねーって言ってた自分は、すごく普通だった。
いつもネジ多少はずれてるかもしれないけど、
少なくとも、こんなんじゃなかった。



ということは、8ヶ月前の自分に戻ればいい。
わかりやすく「去年の自分」に戻ればいい。
去年の12月の自分は、とにかく走っていた。
歌いたいから、踊りたいから、両方同時にできるようになりたいから。体力がほしかった。
もし自分がアラジンで、ジーニーに願いを叶えてもらえるとしたら、たぶんそれがほしかったんだろう。

続けていれば叶うものと思って、新しく買ったランニングシューズを外国にも必ず持ち込んだ。
でも実際は、海外で走る余裕なんてなくて。
今朝は階段の上り下りだけで心臓が痛くなる、そこまで弱くなってしまった自分が情けなくなった。
一年で強くなるはずが、弱くなっていた。

いろいろ強くなったとは思う。体も心も。
でも結局負けて、一ヶ月ゴハンまともに食べられない状態に追いやられたら、人間てこんなに弱ってしまうものなんだ。

次の一年こそ、自分の意志を貫きたい。好きなことをしたい。

帰国してすぐ、一度走ってみたときも、ものすごく気持ちがよかったなぁ。
「走る」だけでもいいから、好きなことをしたい。

離人の治し方としても「体を動かす」っていうのが効果的らしい。
しばらくは、誰がいようと、走ることだけは人に遠慮せず、制限せず、続けていこうと決めた。

友達のおかげで、やっと体が「音楽」に戻ってきた気もする。
今日は久しぶりに「音楽」を楽しむことができる1日になった。
離人で一番つらかったのは、「音楽」すらどっかいってしまったり、つかんでもすぐ消えてしまったり。
歌詞のある曲は、日本語にも英語にも疲れてしまっているのか過敏になっているのか、聴くことでがわーっと言葉が出てきてストレスになったり、楽しむことができなかった。
作詞作曲は時々ふっとできたけど、じゃあPCやピアノに向かって...と立ち向かう体力はなかった。

今日は昼寝したら元気が出たんだけど、 そのとき「ピアノに手が届かない(地べたを這いずっている子供がピアノに手をのばしているような目線)のがすごく悔しくて、その直後のカットではピアノの前にちゃんと座って練習している」という夢をみた。
人と話して、食べて寝ると、何か力みたいなものが自分に戻ってくるんだなぁ。



自分を音楽に、自分の世界に、現実に、戻してくれたのは、周りの人のおかげ。 
そういえば昨日も「音楽やらないの?」って言ってくれた人がいたり、
なんだかんだで、人に背中を押してもらうと、それだけが強烈に頭に残る。

「え、好きだったことでしょ? なんでやってないの?」と言われたとき、
「起き上がれなくて...」と言ってるとき、すごく情けなくなった。

人々は好きなことやって自分というものを形にしていっているのに、
自分は全然自分に集中できていない。
自分がないんだから、当然だ。今。

音楽の話を少ししたら、昨夜からずーっと、ずーっと、ぼんやりと幸せだった。
ごはんを食べると、現実に戻って、気持ち悪くなって、またいやなことで頭がいっぱいになって、頭痛がしまうんだけど。。



「やりたいこと」 とか「音楽」とか、好きなことだったのかも。
今は義務みたいに、「読む」とか、文章追えないからとにかく「見てイメージとして覚える」っていうのをやってる。
サヴァンの人とかが「文章を読まずに見て写真として覚える」って言ってて、今までわけわかんないと思ってたけど、今ときどきそうなることがある。一瞬で消えちゃったりもするんだけど。
そういうとき、自分の中にフィルターってものがなくて、スッと何にでも入っていける浮遊物になった気がする。
現実や、型にはまったものの中に入るのは、むずかしい。
問題集の答えの枠を見ているだけで、自分が枠に閉じこめられているような気がして苦しくなったりする。



音楽には言葉がないものもあるし、延々と機械音がくり返されたりするのが、最近妙に好きだ。
前は退屈で仕方ないと思ってた。

無理しなくても、気持ちに合うような切ない曲や、ここにいないような浮遊感のある曲だって、いっぱいある。
そういうものを聞いていると、自分の感覚を共有してくれる存在があるようで、安心する。





一番無理しないでできることは、音楽かもしれないなって、思うことができた。
やりたいもの、映像にしろ、英語にしろ、音楽ありきだし...。


自分の手に感覚はないんだけど、
まるで色んな人に手を引っ張ってもらって、音楽という場所まで連れ戻してきてもらった気分。
別に誰かに手を触ってもらっているわけでなくても、
そんなふうに映像として、人の気持ちや感覚が残っていく。

だから、記憶もこれからどんどんめちゃくちゃになっていくのかもしれない。
映像として頭に残っているものが、しっちゃかめっちゃかになっていく。
どんどん、あるものないもの、夢も現実もいっしょくたに、同じファイルに放り込まれて、どんどんデータ膨らんでいく。追いきれない。
ある日ハードディスク壊れそうで、怖い。



うまく言い切れない感覚ばかりで、ああ言葉にできない、と思うとなんだかすごくしんどいんだけど、

「じゃあ音楽にしていこうか」っていうのも、思ったより日数のかかる、現実的な問題なのだ。うんざりするほど。
だからそれをやりたかったら、明日も生きていかなきゃいけない。
起き上がれないとか、言っている場合ではない。




一時的なものですみますように。